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「働くこと」に対する価値観やニーズが多様化する昨今。高い報酬や社会的地位をめざすことがメジャーな価値観とされた時代は去りつつあり、仕事に自分らしさや社会的な意義を求めるケースが増えてきている。ただ、この変容は、長い人間の歴史から見ると非常に限定的な動きに過ぎない。
先人たちは働くことに対し、どのような捉え方をしていたのか。また、どのような背景が働くことの意味を変えてきたのか。過去からの学びは、企業と求職者の良い関係を構築するための採用コミュニケーションにつながる可能性を秘めている。
そこで、著書『働き方の哲学』『キャリア・ウェルネス』で知られる、キャリア・ポートレートコンサルティング代表の村山昇氏を迎え、働くことの価値観の変遷についてお話しいただき、これからの時代に合った求職者に向けた情報発信のあり方を考えていく。村山氏は、人の仕事への向き合い方を研究し、これからの世界で生きるために必要な考え方として、「成功者を目指す」から「健やかに働き続ける」への転換などを提唱している。
前編は、人々が労働に対して抱いてきた価値観を、古代から現代まで時代を追って紐解く。そこから見えてくる、現在の「働く」とは。


仕事は苦役?信仰の現れ? 歴史からひも解く人々の労働観


――ここ数年の働き方の変化をどのようにご覧になっていますか。
近年は政府の方針やコロナ禍の影響により、働き方の選択肢が増えました。従来の働き方の見直し、時間外労働の上限規制やテレワークの導入、ホワイトカラーエグゼンプション*のような働いた時間ではなく仕事の成果で評価する勤務形態への適応など、様々な取り組みがなされています。多様な働き方の提示やIT化による生産性の向上など、一定の成果は見られたのではないでしょうか。
*オフィスワーカーなど一部の労働者に適応される、働いた時間に関係なく成果に対して賃金が支払われる仕組み。高度プロフェッショナル制度とも呼ばれ、一定の年収要件を満たし、職務の範囲が明確で高度な職業能力を有する労働者が対象となる
しかし、これらはあくまで形式的な仕組みの面での改革だったに過ぎません。本来の働き方改革は、一人ひとりがより良い将来の展望を持てるように取り組まれるものです。働き手が自身の仕事や働き方に対して意志や目的を明らかにし、納得して働けることが重要です。それは採用活動、すなわち企業と求職者とのコミュニケーションにおいても同様です。企業側は、十分な能力を備えながら高いエンゲージメントで働く人材を求めているはずです。しかし、表層的な要素を主としたコミュニケーションに留まっていて、企業と求職者の本質的な結びつきまでには迫れていないように感じます。
――「表面的な要素」とは何を指すのでしょう。
次の図は、職業・労働をめぐる変化を眺めるいろいろな視点をまとめたものです。図のなかの上部、水面に近いものほど、表層・短期・ミクロ的なものになります。たとえば近年、DXを進めるにあたりデータサイエンティストの需要が高まっていますよね。それは知識や技能、職種のトレンドであり、10年後、20年後は異なる職種のニーズが高まるかもしれない。ということは、データサイエンティストに備わるスキル“のみ”で、会社と働き手がつながり続けることは現実的ではないですし、付け焼き刃的対応のように思えます。


そこで注目したいのが、図の下にある深層・長期・マクロ的な視点です。「労働観」というのは、仕事に何を求めるか、働くことを通じて何を実現したいか、という働くことに対する比較的長いスパンでのスタンスを指します。これは時代の深いところで、静かにゆっくりと移り変わっていきます。
――過去の歴史において、労働観はどのように変化し続けてきたのでしょうか。
古代ギリシャでは、「労働は卑しく、呪いに満ちたもの」と見なされてきました。自然に支配され、体を酷使し、人間の生理的な欲求を満たすことだけが目的であり、思考の自由はないという考えです。よって農耕は奴隷のするものであり、生活用品を作る職人、それらを売買する商人も蔑視されていました。労働とは基本的に苦役そのものであり、ネガティブベースで語られるものだったのです。
人々の生活に大きな変化を与えたキリスト教においても、初期の段階では労働を否定的にとらえています。聖書では「お前は額に汗を流してパンを得る。土に返るときまで」(「創世記」第3章)と、アダムの犯した罪に対する罰として労働は語られていました。 ところが中世に入ると、キリスト教の修道院の世界では、労働が人間の怠惰を防ぐ営みとして見直しがされるようになります。労働は神への祈りと同様に、信仰生活の一つとしての性格を帯びるようになります。ここから、生きていくための労働は精神的な意味を持つようになっていくのです。


その後、16世紀にはルターの宗教改革を契機に、労働は魂の救済としての意味合いを持つようになります。神に選ばれし者は良い仕事を得られるとされ、逆説的に仕事を成功させることが神の偉大さの証明につながり、それを実行していくことが宗教的な使命と捉えられるようになっていきます。
さらには、禁欲と勤勉な労働によってもたらされる富の増大を積極的に肯定する動きが、プロテスタントを中心に広まります。この系譜は、18世紀以降のいわゆる「アメリカンドリーム」といった概念にも引き継がれ、労働がポジティブな意味合いで受け取られるようになります。
一方、時期を同じくしてイギリスでは産業革命が起こります。資本主義経済と産業の工業化が進み、少数の資本家と多数の賃金労働者という関係が生まれました。工場で朝から晩まで単純作業を繰り返す働き方は、人間の疎外化を招くものであり、ネガティブに捉えられる向きが高まりました。 ここまで述べた流れとは一線を画す労働観も存在します。それは芸術家や職人、学者など、その道を極める人たちの働き方です。特に産業革命以降、手工業職人らの間でプロダクトを作品として高めようとする動きが活発化します。イギリスの工芸家ウィリアム・モリスが提唱する「アーツ・アンド・クラフツ運動」のような、ものづくりはwork(作品づくり)であり、labor(労働)から解放された仕事だというものです。
――社会全体が何に依って価値観を形成しているかが、その時の「働く」ことの受け取り方を決めていったのですね。ちなみに、ここまで西洋社会を中心にお話いただきましたが、日本はどうだったのでしょうか。
江戸時代までは、全般的にさほどポジティブとは言えないものだったのではないかと考えています。大きな理由としては世襲制が前提にあったからです。武家の子どもは武士に、農家の子どもは農家として育ち、そこに職業の選択はありません。また庶民の大半は農耕を営み、田を植え、畑を耕さなければ生きることもままなりませんでした。
ただし、茶道や書道、武道のような道を究める考えは比較的古くから存在し、そうした領域に属していた人々は苦役としての働き方だけではなかったのではないでしょうか。また、庶民のなかでもものづくりを行う、いわゆる職人と呼ばれるような人たちにおいては、自身の技術を可能な限り高め、同じように道を究める方向に行ったケースもありました。
明治期から昭和初期にかけて、日本は一気に西洋化します。職業選択の世襲が解かれて、会社員や公務員になる人が増えていきます。しかし彼らの労働観はやはりどこか「仕事は“お上の命令で”やらされるもの」という受動的で重いものではなかったでしょうか。 また、自営で事業を始める人にとっても、仕事は依然として食っていくための「生業(なりわい)・稼業」という意味合いが濃かったと思います。ただ、職業を自分の能力を道として研ぎ澄ますという人たちは、少数派ですがしっかり存続しました。
ネガティブとポジティブが入り混じる、現代の「働く理由」


――ここまで過去のお話を伺ってきました。それらを踏まえたうえでの、私たち現代人の労働観についてお聞かせください。
現代に至っては、ネガティブもポジティブも入り混じり、様々なベクトルが拡散している状況に見えます。
ネガティブな面は、たとえばライスワークとしての労働です。生活を成り立たせるための労働であり、極端に言えば面白さや楽しさ、生きがいを目的にはしていません。
片や、仕事は自己実現や社会貢献につながる側面も持ち合わせており、働きがいや成長実感を得ることはまさしくポジティブな労働観をもたらします。 面白いのは、それぞれの個人のなかにもネガティブとポジティブの両方が存在することです。私自身も組織・人事コンサルタントの仕事は基本的に楽しく、7割はポジティブにとらえていますが、3割は生活のために働いている感じです。その比率はライフステージなどでも変化し、一定ではありません。
――確かに思い当たるところがあります。そうした労働観はどのように形作られていったのでしょうか。
戦後、多くの日本人にとっては、学業を修めたら企業に就職し、定年まで同じ会社で働き続けることが定番化しました。会社が一生の面倒を見てくれる代わり、会社の決定に従い異動や転勤を繰り返す。ある意味で滅私奉公のような働き方をしつつも、組織や取引先の役に立ったり自分の提案が受け入れられたりと、自己承認欲求を満たす場面も見られます。基本はライスワークなのですが、ポジティブな要素もゼロではなかったのです。
高度成長期以降、日本社会で共通のキャリアイメージが形成されました。それは自身の能力を示し昇進・昇格・昇給を成し遂げていくような、常に右肩上がりの成功のキャリアイメージになります。 ところが、バブルが崩壊して低成長の時代に入ると、必ずしも競争に見合う経済的報酬は得られなくなってきます。努力し続けたところで体は疲弊し、メンタルを擦り減らすばかり。そうした状況から、仕事はそこそこに、プライベートを犠牲にしてまで頑張らない働き方をしていく自己防衛的な労働観が醸成されていきます。
――社会の状況への対応と、その揺り戻しで労働観が形成されているのですね。
おっしゃるとおりです。さきほどの続きになりますが、自己防衛的な労働観は、一見自分を大切にしているように思われますが、成長を諦め、社会との接点を広げることに消極的な姿勢は健全とは言い難い。人生100年時代を迎え、70歳や80歳まで働くことを想定すると無理があります。 そこで近年、「働きながら、健やかさを求める」労働観が注目されるようになりました。画一的な生き方にとらわれず、仕事と暮らしと学びを行き来しながら人とのつながりを大切にし、生涯「変身」し続ける覚悟をもって生きていく、柔軟性の高い価値観です。
働くことと生きることの調和が進み、主体的に行動する人が増加


――働くことと生きることがシームレスになり、生涯を通じた働き方もより個別化していくということですね。
そのとおりです。私はよく「ワークライフ・ブレンド」という言葉を使うのですが、仕事と生活を完全に切り分けるのではなく、融合を図っていくことで、それぞれに良い影響を与えるのだと思います。この概念は、特に新しいものではありません。
たとえば芸術家や作家などの表現者は、自身の生き方が作品に大いに反映されます。また制作を通じて得た気付きが、日々の過ごし方に変化をもたらすでしょう。 世の中の変化やテクノロジーの進化によって、今までなら一部の職業の人しかワークとライフをうまくブレンドできていなかったものが、オフィスワーカーでも可能になりつつあると感じています。
――そうなると、働き手が仕事を選ぶ基準も変わってきますね。
もちろん食べていけなければ困りますし、不安定な環境では仕事に打ち込めません。また能力を発揮するには、任される仕事とスキルやコンピテンシーのマッチングが不可欠です。
しかし、生き方が働き方に反映されるのであれば、自身の価値観や想い、生きているうちに成したいことを無視して仕事を選ぶのは難しくなる。よって冒頭に示した図の海面付近の観点だけでは、企業と働き手のいい出会いにはつながらないのです。
今のところはまだまだ、「働くことは生きるための手段であり、しんどいものだ」といった感覚が大きな割合を占める人が大半でしょう。けれども、仕事を通じて成長したい、信じた道を極め、世の中に貢献したい人は少しずつ増えています。
こうした志向性の持ち主は、社会に対する感度が高く、自調自考を重ねながら主体的に行動する傾向にあると感じています。クリエイティブでイノベーティブな感性に長けた、“良い人材”であることが多いのです。
そのような“良い人材”を企業が求めるなら、当然ながら彼らの心に刺さるメッセージを届ける必要があります。つまり、従来の採用広報のあり方を見直す時期に差し掛かっているのです。 後編では、現代の労働観をより深く解説しながら、そうした価値観を持った人々に届く情報発信を行うための考え方を紹介します。